女は塩野だけじゃないだろ。三島はそう言う。そりゃそうだ、商業科なんか女子の巣窟もいいところだし、僕も一人だけに貞操を(この言い方が間違っているかどうかは置いておいて)捧げるなんてばからしい考えも持っちゃいない。
 ただ、やっぱり人間そこまで器用に出来ているわけじゃない。そんなに器用な人間ばかりなら「恋は盲目」なんて言葉絶対にこの世界に生まれてなどいないからだ。

 つまり、僕は失恋したわけだ。
 それも自爆に近い方法で。木っ端微塵もいいところだ。

「飛岡君」
「なんだよ」

 塩野が首を傾げた。あの涼やかな表情すら、今は憎らしく思える。数分前はあれほど美しく、愛らしく見えたというのに。人間の感情は実に単純だ。
 僕は若干水っぽくなったコーラフロートをずるずる啜りながら、さっさと逃げ出してしまいたいとばかり考えていた。これを飲み終えたら、伝票ひっつかんでとっとと退散しよう。僕は必死に、噛み痕がついて潰れたストローと格闘した。

「飛岡君って、人間臭いのね」
「はあ」

 なんだそれ、加齢臭? 人間臭いってどういう意味だ。僕はもう塩野に馬鹿にされているようにしか思えなくて、わざわざ語尾を上げた。それでも彼女は怯まない。黒目がちの瞳で僕を見つめている。その視線から、無性に逃げたくなった。

「あなた、人形みたいって思ってたから。普段怒ったり笑ったり、しないでしょう。それなのに顔ばかり綺麗で、作りものみたい」
「そんな、そんなの塩野だって同じじゃないか――笑いもしない、僕と話していたって表情一つ変えやしない、君の方がよっぽど……」

 バニラアイスが氷と混ざってシャーベット状の泡になっていた。グラスの中にもう液体は入っていない。
 人形みたいだなんて、暴言だ。相変わらず僕を見つめる塩野は、うっすらと口を開いていた。彼女もまたミルクティーを飲み終えたらしく、カップは空っぽだった。

「そう、私もよく言われるわ。だからあなたと似てるって勝手に思い込んでいたんだけれど」
「似てる? 僕と君がか」
「えぇ、だからさっきみたいに叫んだり、こうして悲しんでいるあなたが新鮮でたまらないの。恋愛とかにも希薄な方だって思ってたから」

 彼女の大きな目が伏せられる。睫毛が長かった。あれは、季節の変わり目に抜け落ちたりするものなのだろうか。化粧っ気のない肌は若干不健康そうに見える白さだったが、多分大きな問題じゃない。青白いというわけでもないし、あくまで僕の周りと比較してという話だ。

「同族嫌悪って、言葉があるじゃない。飛岡君もそれだと勝手に思っていたの。惰性で一緒に帰っているけれど、ちっともあなた楽しそうにしていないし」
「ちょっと、君は嫌いな人間を毎日待っているの?」
「まさか。飛岡君が、って言ってるじゃない」

 会話の歯車がかみ合わない。僕はただ彼女に見詰め続けられるというのが急に恥ずかしくなって、ぬるくなったお冷にちびりと舌を付けた。濡れたコースターを凝視して、出来るだけ何でもないように声を出した。

「ふぉくは、」

 舌を噛んだ。おまけに声もひっくり返って、壮大なしゃっくりでもした感じになっている。もうかける恥はかいた。そんなつもりで、話を続ける。僕はすでに玉砕しているのだから、何を彼女に対して恐れることがあるだろうか。負けた試合でさらに負けることなど有り得ない。


「僕はね、君と話をしようと思うと自然と口角が上がるんだよ。何もしてないのに頬が緩んで、それはだらしない表情になるんだ。夏でもないのに顔が熱くなることもあるから出来るだけ表情は見せたくない。君が言う人形のような顔は、僕の努力の賜物なんだ」
「つまり格好つけていたと」
「うん」

 それを言うなよ。身も蓋もないじゃないか。
 平然と言ってのけた塩野も、手持無沙汰になったのかティースプーンを弄り始めた。メッキが剥げたスプーンが、歪んだ彼女の顔を映し出す。

「君はずるいな。僕ばかり情けない自分のことについて話してる」
「だって話すことがないもの。飛岡君はそうして涙ぐましい努力をしていたのかもしれないけど、私からすれば嫌われてるんだって思っていたわ。だからその、一か月前の言葉が告白? だとしたらとても嬉しいんだけど、同時にすごく驚いてる」

 塩野は一度、大きく瞬きをした。
 伏せられた睫毛がもう一度持ち上げられる瞬間が、やけにゆっくりと感じられる。口紅もグロスも塗られていない自然な色の唇に目を向けてしまうと、また顔が熱くなる。笑いたくもないのに腹の底から笑いがこみあげてくるような奇妙な感覚がして、思わず胃のあたりを押さえた。人体の不思議だ。

「あのね、好きよ。飛岡君のこと」
「友達として、とか微妙なフォローは要らない」
「そうじゃなくて、ちゃんと異性として。今まで得体が分からなかったものが解き明かされて、すっきりしてるの」
「得体が分からない……」

 僕は未確認生物の類じゃない。
 無論異性として好きと言われたことに僕は全身の産毛という産毛が立ち上がったし、今すぐ外に出てガッツポーズで叫んでやりたい気分にはなった。玉砕からまさかの復活だ。神さまありがとうハレルヤ!
「あの、」と絞り出した声はやっぱり震えていた。だが今の僕には些末なことだ。

「僕の得体がしれないとか、そう言うのは一度置いといてさ。その、僕が君を好きってのと同じように君が僕を好きなら、塩野は僕と一緒にデートをしたり、こうして食事をすることは面倒じゃない?」
「頻度にもよるけれど、面倒じゃないわ。だって好きってそういうことじゃないのかしら。それを言うなら、私は後期から帰る時間がもっと遅くなるわ。休日だって、来年になればほとんど講習だし」

 それこそ些末な問題だ。僕はまたマスターに睨まれないように声を張った。確かに僕らみたいな高校生にとって科が違うとか、進路先が違うというのは大きな問題だ。だけど所詮それだけじゃないか。再来年の春には僕たちは高校生じゃなくなっている。おそらく彼女は大学生になり僕は働くことになるが、どうでもいい。重要なのは、僕も彼女もそれを大した問題だと思っていないということだ。

「なら、いいんだ。僕はそんなこと気にしないし、君もそれを気にしないってんなら、いい」
「そう。じゃあいいの、お付き合いしましょう? 普通はこんなやり取りで付き合うカップル、いないと思うけど」
「いいんだ。君がいいってんなら、僕はもうなんだっていい」

 先ほど僕が塩野に対して感じていた憤りは、全てまるっと彼女への愛情に代わっていた。なんて単純なんだ。僕はこの一時間足らずで、期待と絶望と憤怒と愛を代わる代わる味わった。何となく達成感すらある。
 握りしめたままだったお冷のグラスを傾けて、ぬるい水を一気に飲み干した。塩野がうっすらと笑っている。
 やった、やったぞ。世界は今僕を祝福している。そんな気分になって、僕は軽快に伝票を抜き取った。最初から彼女に払わせる気はない。

「悪いわ」
「いいよ別に。あのお会計、お願いします」

 渋面のマスターが難儀そうに片目を瞑っていた。千円札を渡して返ってきた小銭を、ポケットに突っ込む。
 背負った鞄の重ささえ、感じなくなっていた。

「面白いのね飛澤君、表情がくるくる変わるピエロみたい」

 古ぼけたベルが笑い声のような、耳障りな音を立てて鳴った。

 

PREV  NEXT