「それに、もう少しばかり気になることもあるんだ……執事の兄ちゃん、アンタ最初に会った時、俺のこと『ジェラルド卿』って呼ばなかったか?」
バルトロメウの問いに、スミスが僅かに首を傾げた。
一番最初の出会い――市議長がアプリコット時計店にやってくるその前に、執事であるスミスは店主の素性を調べているはずだ。それ以前にマラドゥイユ市議からの紹介もあったというが、二種ギルドの小さな個人店を調べ上げるというのは恐らくそう難しいことではないだろう。
「大変失礼な事であるとは存じておりましたが、主が1人で訪問すると言って聞かなかったもので……先んじてお二人の素性を調べさせていただきました。バルトロメウ様がシュトレーゼ帝国のご出身であるというのはその時に」
「ほう? 俺の家柄のことも知ってんのかい。一族郎党みーんな死んじまって、残った俺は15年間ムショ暮らしだ。そこまで調べ上げたんだっつーんなら、さすがお偉いさんとこの執事だ」
笑みを崩さずに、バルトロメウは一歩足を進めてアムニシェルの前に立った。腰からぶら下げた道具入れを右手でひと撫ですると、そのままその手でつるりと顎を撫でた。
「しかしなぁ、妙なのはこのじいさんが俺のことを知らなかったってことだ。執事のアンタが俺らのことについて調べたなら、当然じいさんは俺の家のことについても知ってるはずだ。だが市議長は、俺の紅茶の淹れ方を見て『帝国風か』って驚いて見せたんだぜ」
そうだろ、師匠?
意地悪なニヤニヤ笑いを勝ち誇ったような笑い方に変えて、バルトロメウは確かめるように後ろを振り返った。
そういえばそうだ。
あの時はアムニシェルも一緒にいたが、市議長はバルトロメウの紅茶の淹れ方を見て初めて彼が帝国出身であると気付いたようだった。その時同時に彼の、クレム・グレソンという村の出身だというデマカセをまるきり信用しきっていたはずである。
「イイトコのじいさん廃人にするくらいならワケはねぇさな。アンタくらい近くにいる人間なら、食事に薬混ぜるなりなんなりはいくらでも出来る……だがな、どうにも引っかかる。もう15年も前だぜ? 大して戦場に出ることもなくポンコツ司令官のまま終わった俺の名前を憶えてるなんて物覚えのいい奴、少なくとも生きてる知り合いじゃエディくらいだ」
あとはみーんな俺を置いて、おっ死んじまった。
視線を前に戻し、アムニシェルからは見えない位置でそう呟いた彼の表情は、どんなものだったのだろうか。それをうかがい知ることは出来ないが、無表情の仮面が崩れ去るスミスの顔は見ることが出来る。
重い空間の中に、うわごとの様な市議長の独り言だけが流れていた。
「それでよ、俺もない頭働かせて考えたんだ。師匠ばっかり考え事させて、弟子の俺が役立たずってわけにもいかねぇだろ? ……アイツも俺のこと、ジェラルド卿って呼んでなかったかなー、ってな」
「……アイツ、とは?」
あくまでスミスは冷静なまま――震える声で、冷静を装ったまま執事は一歩後ずさりした。それを追い詰めるように、バルトロメウが一歩大きく詰め寄る。まるで空腹のさなかに獲物を見つけた肉食獣だ。
広い後姿が一歩前に進むたび、アムニシェルもそれを追いかける。なんだかそのまま、置いていかれそうな気がして。
「バール、」
「気が付かねぇとは言わせねぇぜ? ウチの師匠の綺麗な金髪持っていきやがってからに、あの後いろんな奴にグチグチ文句言われちまったじゃねぇか!」
爆ぜるように、スミスの体が一瞬浮かび上がってそのまま後方に吹っ飛んだ。
「ぐ、」
「おう、これが今ミケーアの姉さんにいびられた分だ。アミーの髪の分はもう一発取っといてやるから安心しな、兄ちゃんよ」
眼の前で人が吹っ飛んで、驚いたのはアムニシェルの方だ。
骨がぶつかる鈍い音に思わず目を閉じていたのをそっと開いて、床を転がるスミスの様子を確認する。
細身の執事はゲホゲホと苦しそうに何度か咳き込んだ後、体中を掃いながらゆっくり起き上がった。
「あの、バレてました? 私結構演技が上手いのは自覚してるんですけど」
「バァカ、ロスト・テクノロジーに対する態度が大根すぎるんだよ、暗殺者の兄ちゃん」
「……ですから、スミス・アディオンでございますと最初に自己紹介をなさいましたでしょう。ああ、どうにもロスト・テクノロジーを目にすると興奮してしまうきらいがありまして、どうもいけませんね。私の悪い癖です」
こきん。
軽く首を鳴らしたスミスは苦笑しながら、自分の頭を何度か左右に振った。見ている側が酔ってしまいそうなほど激しく振られた首から下がる、彼の髪が少しずつ変化を見せる。
塗りつぶされたように色濃かった髪は鮮やかな金髪へ。
一本芯が通っていた背筋も柔らかく、どこか重心が定まらないような形に。
「お久し振りです、アムニシェル様。先日は失礼を致しまして、その後ご健勝そうで何より」
よく訓練された執事のように、彼は腰を折る。アムニシェルのものよりも少し硬質な金髪が、部屋の明かりに照らされていた。
「改めまして、スミス・アディオンと申します。以後お見知りおきくださいね、魔女殿」
昔話の天使のように柔らかく、スミスが笑った。
「なーにがスミス・アディオンだ。最初ッから分かりやすい偽名使いやがって」
「偽名ではなく、これは私のビジネスネームといいますか……臨機応変適材適所という言葉がありますでしょう。あの姿にはあれが一番似合っていると思っていたんですが、ダメですね。あなた方にバレてしまうようでは」
先ほどまでの狼狽ぶりや普段の冷静な紳士然とした態度はどこへやら、スミスはうっすらと笑いすら浮かべたままで肩を竦めた。こうして見るとなるほど、立ち居振る舞いは隙がない割にどこか作り物じみている。
目の前の人物の変貌ぶりに口を開けて佇んでいたアムニシェルはハッと我に返ると、オルゴールを抱きしめるようにして手に力を込めた。両親の遺品を、目の前の男に奪われるわけにはいかない。
「御心配なくアムニシェル様、私もクライアントも、ロスト・テクノロジーではない只のガラクタに興味はございませんので……」
「ガラクタじゃ、ないです。それにクライアントって、市議長のことなんですか」
「えぇまあ、ここのクライアントは確かにこの方ですよ。一時的にですが主従関係を結んでおりました。もっとも、彼がこの状態では契約続行も不可能、契約不履行は即時関係解消となります。これ以上はまあ、守秘義務ということで。おしゃべりな執事っていうのも、美しくないでしょう?」
美しくない。そういう割にぺらぺらとまくし立てるスミスはゆっくりと一歩を踏み出した。唇には薄ら笑いを浮かべたまま、視線は値踏みするようにバルトロメウの体を一巡し、やがてアムニシェルの瞳を捉えた。
アムニシェルも、もう何年も店を営んでいる。子供だから、職人だからと言い訳はできないためそれなりに接客も学んできたが、それがどうにもおかしいのだ。生きた人間の生気や感情の波が、スミスに限っては感じられない。執事の振りをしていた時の方がよほど何を考えているのかがわかるくらいだ。
煩わしげに白手袋を脱ぎ捨てたスミスは、より一層笑みを濃くする。
まるで年の離れた妹を慈しむような、そんな深い笑顔だ。
「戦後生まれの魔女殿っていうのは、ご自身はお気付きではないのかもしれませんが、非常に希少価値が高い存在なのですよ。戦時中多くの魔女が非業の死を遂げ、ただでさえ少ないその個体数は減少の一途をたどるばかり。そんな至宝のようなお方をあんな猥雑な街に一人というのは、どうにもいただけないような気がするんですよねぇ」
こてん、と首を傾げたスミスに、バルトロメウが罵声を飛ばす。けれど金髪の執事は表情一つ変えず、また能面のように薄い笑みを張り付けた。
「執事の兄ちゃんよ、さっきから聞いてりゃ随分な言いようじゃねぇの? 個体数? アミーは動物でも道具でもねぇんだぞ」
「あなたには――さっきから一言も話しかけてはいないのですが、ハイ、あ、撃つならどうぞご勝手に。天才狙撃主ジェラルド卿の弾丸とやら、恐らく外すことはなさいますまい」
そもそも眼中にないと言わんばかりの態度に、額に青筋を浮かべたバルトロメウはそのままの勢いで腰の道具入れに手をかける。
スミスが最初の出会いでは没収した拳銃を奪わなかったのはこのためだったのか――撃鉄を上げる手に僅かばかりの力が籠る。
「駄目、バール! スミスさんのその位置、外したら市議長に当たっちゃう!」
「……テメェ」
バルトロメウの直線上に立つスミスの、その後ろには椅子に座ったままのオズベルク市議長がいる。下手をすれば吹き飛ぶのはスミスではなく市議長の頭だ。好きにしろと両手を広げて挑発してくるスミスに、バルトロメウは手が出すことが出来ない。
「二度も三度も醜態をさらすのはですね、あんまり好ましくありませんよねぇ。それもこんなお嬢さんの前で……私にも一応、成人男性としての矜持がありますから」
「はン! 雇われ暗殺者だか執事だかがが矜持を語んのか。笑えねぇぜ」
「至極本気ですから、笑って頂かなくて結構ですよ。別に、ねぇ? 仕事と私生活をしっかり分けているだけで、女性を大切にする紳士的な暗殺者がいても何ら不思議ではないと思いますが」
昔からの顔なじみのように会話を交わす二人だが、その視線は次の行動を仕掛ける機会を狙っている。先に気を抜いたほうが、恐らく地面と濃厚なキスを交わすことになるだろう。
「バール、頭下げて!」
互いが互いの動きを読み合い、腹の中を探り合う空間の中で最初に動いたのは、この空間で最も体重が軽い少女だった。
念のためと持ってきていたレンチを思い切り振りかぶって、出来るだけ遠くに投げる。
スミスに当てる必要はない。当たるとも思っていない。
案の定身軽にそれを躱した執事だったが、欲しいのはその動きだ。相手に隙を作る、僅かな一瞬。スミスが少しでも身動きしてくれれば、優秀な弟子は引き金をためらいなく引くことが出来る。
撃鉄が上がる。後に聞こえる軽い発砲音に、市議長の虚ろな目が僅かに揺らいだような、そんな気がした。
煙を上げる銃口に、硝煙の臭い。
音と臭いに顔をしかめ、瞬間的に目を閉じていたアムニシェルはそろそろと目を開いた。まだ、耳の奥の方がキーンと鳴っている気がする。
部屋の中は時間の流れすら止まっているかのような静寂で満ちていた。市議長の独り言すら聞こえてこなかったため、少しの間は自分の耳がおかしくなってしまったのだと思えてしまうほどに。
「……バール?」
倒れ伏したスミスの頭に、銃口を向けるバルトロメウ。
一枚の絵画のようにまるで動かない二人に、アムニシェルはおそるおそる声をかけた。
冷たい金髪を床に散らばしたスミスは、生きているのか死んでいるのかもわからない。
ようやく深く息を吐いたバルトロメウは、不安げに自分の服の裾を掴んでいる師匠に向けて頭を振った。
「ダメだな、折角相棒を仕上げてもらったってのに、俺の腕がナマってやがる。……俺ァ確実に頭を狙って二発打ち込んだぜ。いいな師匠、あとは市警軍が何とかしてくれる」
「市警軍?」
「小便ついでにちょいとな。御者のじいさん、上手い具合にエディに伝えてくれたんだろ」
バルトロメウの言葉に従って床に転がるスミスを確認すると、途絶えそうなほど細くはあるが辛うじて呼吸はしている。
殺してはいないのだ――思わず安堵の息を吐きだしたアムニシェルは、バルトロメウによって彼の影に押し込まれる。湿った血液交じりの息を吐き出すスミスのことが心配でないわけではなかったが、近づいた瞬間に首と胴体が別れを告げるだなんてことがあってはならない。
「スミスさん、大丈夫だよね……生きてる、から」
「さあな。ただあのままだと確実に、次はアンタの髪の毛じゃすまなかった。嫌なもん見せちまったが、許してくれな」
武骨でグローブのように厚い掌が降ってきて、心配そうにスミスを見つめるアムニシェルの頭を撫でる。
決して、誰かを傷つけてほしくなかったと綺麗事を言うつもりはない。ただ眼の前で人が死ぬのは誰であっても気分が悪い。それだけだ。自分を守るためにもう一度銃を握ってくれたその掌をきゅっと握って、アムニシェルは小さく頷いた。
そうしてややしばらくそのまま小さくなっていると、遠くの方から大勢の足音が聞こえてくる。
市警軍だ。
灰色の制服を身に着けた屈強な男性が数人、使用人たちが止めるのも構わず部屋の中に押し入ってくる。
ただ、この状況を見ただけだと疑われるのはバルトロメウの方なんじゃないか――相変わらず拳銃を構えたままの彼を見上げると、思わず体が硬くなる。
「アムニシェル・アプリコット嬢ですね? おい、アプリコット嬢を確保したぞ!」
「エドモンド・パーシェルバウツ博士から事情は聞き及んでおります。こちらが弟子のジェラルドさんですね……」
軍帽をかぶった市警軍の男が二人、アムニシェルとバルトロメウに近づいてくる。
どうやら彼がエドモンドの元に送ったという御者は、正しく真実を伝えてくれたらしい。
「モルデ家の使用人の方々からも幾つか証言を頂かなくてはなりませんが……大丈夫、我々はあなた方の味方ですよ」
「……今更のこのこやって来てそんなこと言われてもなァ。どうにもタイミングが良すぎるぜ」
市警軍の男は困ったように笑いながらも、結局なにも言わなかった。
視界の端で何人かに抱えられているスミスは力なくうなだれている。顔色は悪く腕から血を流してはいるが、目に見える傷はそれだけだった。
だから、見間違えたのかもしれない。否、見間違いであってほしかった。
薄い彼の唇が、まるで三日月のように歪んだことなど、動転したアムニシェルの見間違いであると。そう、誰かに言ってほしかった。
「離れて、……スミスさんから離れて!」
さっきから叫ぶことしかできない――でも、知らせずにはいられなかった。だが、甲高く響いた彼女の声に呼応するように咄嗟に体を離そうとした市警軍のうちの何人かが、くぐもった声を上げてそのまま薙ぎ倒されていく。
「あのぉ、死んだふりっていうか、これ二度目なんですけど……案外ヒトって、こういうのに弱いですよね。ダメですよ、私を殺せる機会があったなら、しっかりきっかり頭を潰しておかないと」
――ああ痛かった。酷いことするなぁ。
不注意で軽い怪我を負ってしまった時のように唇を尖らせて、それまでぐったりとしていた執事の体が跳ね上がった。
「総員構え! 構わん狙ったらそのまま、撃て!」
「だから撃ったら市議長に、って……あなた達さっきまでいなかったんでしたもんね。でもまあ、狭い部屋でむやみやたらと銃弾ばらまかない方がいいですよ。ね、アムニシェル様」
それまでアムニシェルの傍にいた、恐らく指揮官と思しき男の怒号すらも、スミスは軽く受け流してその場で立ちすくむ小さな魔女にこうべを垂れた。
「色々お見苦しいところをお見せしました。残念ですが今日はこれでお別れですね。アムニシェル様、どうぞご入用の際はお呼びいただければ……稀代の魔女殿のご命令なら、無料で何でもお受けしますよ。それではまた、機会があればお会いしましょう」
今度は完璧な、万人が頬を染めるであろう完全無欠の笑顔で、スミスは最後にアムニシェルの指先に唇を押し当てて消えてしまった。
物体が突然煙のように消えるなどという現象に説明などつくはずがない。
一同揃ってぽかんと口を開けている中、バルトロメウだけが鬼のような形相で拳銃のグリップを握り直していたが、それを見た者はおそらく誰もいないだろう。
「アムニシェル嬢、御無事で!?」
「え、はい……怪我とかはしてないっていうか、さっき吹き飛ばされた人たちの方が大丈夫ですか?」
一瞬本当に何が起こったのかわからないが、とにかくスミスが、捕えるべき人間が消えてしまったのはちゃんと理解した。
アムニシェルは微妙に唇の感触が残る指先を腰のあたりでグシグシと拭って、すぐに辺りを見回した。
「よう、怪我してねぇなら何よりだがよぉ……最後の最後まで胸糞悪ィ野郎だったぜ」
「ま、まあ……執事の方のスミスさんはともかく、金髪の方は、……あ、」
「おいっ、大丈夫かよ!」
今になってようやく事の実感が沸いたのか、腰が砕けてふらついたアムニシェルは弟子の腕で支えられながら弱々しく笑みをこぼした。
……結局うやむやになってしまったが、オルゴールは持って帰ってもいいのだろうか。後から指揮官に聞いてみる必要がある。あと、市議長の容体は一体どうなっているのか――知りたいことはいっぱいあるが、今はとにかく体が重い。
誰かが名前を何度も呼んでくれているみたいだけど、それも今の彼女にとってははちょうどいい子守歌にしか聞こえなかった。
どうしてだろう、こうして名前を呼ばれたのは、もうずっと昔のことのようだったような、そんな気がする。
最後にふうっと息を吐いて、年若い魔女はそのまま健やかな寝息をたてはじめた。
仕方がない師匠だと笑う熊の様な弟子はその軽い体を抱え上げ、騒ぎ立てる市警軍をものともせずに部屋の出口に向かっていった。