「ホゼットじいさん、ごめんね無理言って」
「良いってぇことよ! 嬢ちゃんこの前オレの義手直してくれたじゃねぇか、困った時はお互い様ってなぁ」
市議長の屋敷に向かうには足がいる。
普段はスミスが用意した馬車に乗って市議長邸へ向かっていたが今日はそもそも約束自体を取り付けていないのだ。歩いて行ける距離でもないと頭を抱えるバルトロメウに心当たりがあると提案したのはほかでもない、アムニシェルだった。
「しかしこんなちゃちな荷馬車でいいのかい? 蒸気自動車とは言わねぇが、もっといいモンがあっただろうに」
「ううん、小回りも聞くしこれで大丈夫。バールも馬車の運転、出来るんだよね?」
「まあ、昔取った杵柄ってやつだな。あのデケェ馬車ならまだしも、これくらいなら問題ねぇよ」
ちょっとした商家であるホゼットじいさんの持つ荷馬車を一台借りて、アムニシェルはその荷台に乗ることになった。御者がバルトロメウということに多少の不安を覚えないわけではなかったが、そこは彼を信用するしかないだろう。
以前彼の義手を直したということもあり馬車は案外簡単に借りることが出来たので、必要な荷物だけを持って二人はモルデ邸まで向かうことになる。馬車の上で汚れてもいいようにアムニシェルの装いは普段よりも簡素だ。
「ホレ行くぞ師匠。ちっとばかし揺れるが我慢しろよ。何だったら御者台一緒に乗るか?」
「んー、いいよ。大丈夫……それよりバール、絶対振り落とさないでね」
「任せろ。あー、それとだな。吐きそうになったら早めに言えよ、すぐ止まるから」
少しばかり頼りないロバに鞭打つ音がしてゆっくり馬車が走り出すと、なるほどスミスが用意してくれる馬車のそれよりも大分揺れが酷い。
石畳で舗装された場所もさることながら、酷いのは町はずれで石ころが転がっているような場所だ。膝を付けていると擦りむいてしまいそうなのでアムニシェルは必然的に膝を立てて座ることになる。すると今度は直接尻に衝撃がやってくるので、最終的にはしゃがみこむような体勢で側面に掴まっていなければならなくなった。
「ひうっ!」
「おーい、大丈夫かぁ?」
「う、うん。大丈夫……酔ったりはしてないから。ただその、おしりが……」
また大きく馬車が揺れる。
木箱のような荷台に掴まっているだけで手は痛くなってくるし、散々だ。
こんな事だったら最初から見栄を張らずに御者台に乗せて貰えばよかった――悠々と鞭を操りロバを走らせるバルトロメウの背中を見て、アムニシェルはこっそり鼻を鳴らした。
「お、見えてきたぜ。もう少しの辛抱だ。飛ばすか?」
「いい。このままの速さじゃないと私、本当に落っこちちゃう」
せめて下に何か敷いて貰えばよかった。
後悔が先に立たないと分かっていても後から後からそんな考えばかりが湧き出てくる。
遠くの方に見えていた豪邸がどんどん近くなりその敷地が見えてくる頃には、アムニシェルの視界はグルグルと回転しているようだった。
「失礼、本日はもう商人の出入りは……」
「あァ、すんませんねぇ。こちらの御主人に依頼を受けて仕事してます、アプリコット時計店のモンなんですが」
門に近づくと、軽装の警備兵が品定めをするような目でバルトロメウとアムニシェルを交互に見た。荷馬車の上で目を回している少女の身なりやその様子から、彼女が本当に時計店の店主だということを悟ることが出来る人間は多くないだろう。
「執事サンに確認してもらえませんかね? すぐ通せって言われるはずなんですけど」
「……少々お待ち願いたい」
相変わらず胡乱な視線を投げつつ屋敷の中に戻っていく警備兵を見ながら、バルトロメウは面倒だと肩を竦めた。
「そりゃこんな格好で来た俺らも悪いけどよォ、融通効かないってのは嫌になっちまうな」
「普通はちゃんと約束しないといけないんだよ。今日はその、そういう時間がなかっただけで」
「分かってる分かってる。ほら、上の奴らの方がよっぽど話が早ぇや」
警備兵に呼び出されたのか、スミスが玄関から足早に近づいてくる様子が見て取れた。しかしながら門と玄関の間に距離がありすぎて、中々到着までは時間がかかるようだ。
「ア、アムニシェル様……本日はどうされました? 御用があったのならば私を呼び出して下されば、すぐにでも参じましたものを」
「ごめんなさいスミスさん、あの、あれから色んな人の助けを借りて――多分私、レーツェル・キューブを開ける方法、わかりました」
息せき切って走ってきたスミスにそう告げるとアムニシェルは馬車から降りようと足を延ばすが、残念なことに地面に足が届かない。慌てて御者台から飛び降りたバルトロメウが手を差し出すと、飛び込むようにしてようやく降りることができた。
「ありがと……あと、市議長に少しお聞きしたいことがあります。そうだよね、バール」
「おうよ」
わざと挑発的な表情を浮かべて、バルトロメウは右手の関節を鳴らした。不愉快そうにスミスが表情を曇らせるのすら楽しんでいるようだ。
「アンタにも聞きてぇことがたんまりあるんだ。なぁ執事サンよ」
「私に聞きたいこと、ですか。えぇ、答えられる範囲でならばお答えしますが」
「まあそれよりも先に市議長の前で結果お披露目するのが先だわな。ウチの師匠が寝る魔も惜しんで解除方法を調べ上げたんだ」
まるでチンピラが喧嘩を売っているような口調だ。その言い方に少しばかり表情を揺らしたスミスではあったが、やはりそこは執事としての矜持なのかそれ以上感情の揺らぎが表に出ることはない。
「……わかりました。主は現在屋敷におりますので、お二人がいらっしゃった旨を伝えて参ります。控室を用意いたしましょう。こちらへ」
先日は裏から入ったためか人の影が見えたが、やはり正門から入ると庭師くらいしか目に入らない。白亜の豪邸の中に招き入れられると、二人はいつもの使用人部屋ではなく別の客室に通された。
「お茶はいかがいたしましょうか」
「お構いなく。押しかけてしまったのはこちらですので」
それならばと一礼をして部屋を辞するスミスに、二人は終始息を止めたまま彼の気配が遠ざかるのを待った。
別に悪いことをしているわけでもないのに、これから裁判で罪を言い渡される罪人になったような気分だ。
「いいかアミー、たとえ何が用意されても、出されるもんには一切口付けるんじゃねぇぞ。あと基本的に俺の手の届く範囲にいろ。次守り切れんかったら俺は本気でエディの奴に殺されちまう」
用心棒よろしく腕を組み壁にもたれかかりながら、バルトロメウは唸るようにそんなことを言う。
アムニシェルにしても、先日の襲撃から用心に越したことはないと考えていた。いざとなれば髪とか服とかそんなことは言っていられない。最低限足手まといにはならないよう、這ってでも逃げなければならないのだ。
それからややしばらく沈むような沈黙が続き、執事によってドアがノックされた頃にはアムニシェルは居眠りをする寸前のような状態になっていた。
「御二方、主が是非成果をお目にかかりたいとのことです。どうぞ私の後に続いてください」
寝ぼけ眼をこすりながらスミスの後を追うアムニシェルの、その横にバルトロメウがぴったりと寄り添う。上下左右前後各方向に意識を張り巡らせ、彼女の護衛には万全の状態を喫さなければならない。
長い廊下をわたり、やがて三人がやって来たのは初めてこの屋敷に来た時と同じく屋敷の最奥にある主の部屋だ。
四度繰り返されるノックの後、扉が開かれてアムニシェルとバルトロメウは赤絨毯の部屋に足を踏み入れる。
「……思ってたより、事態は最悪みてぇだな」
最初に出会った時よりも、二度目は酩酊状態のような口ぶりだった。好々爺然としながらも意志の強さを感じさせる姿が、まるで耄碌した老人そのものになってしまったかのような変化に二人とも驚きを隠せなかったものだ。
だが、今はそれよりもっとひどい。
「市議長……」
澱のようにどんより濁った瞳で中空を眺めながら、何かをひっきりなしに呟いている。聞き取ろうとしても呂律が回っていないのか、口内も溜まった涎がゴボゴボと粘着質な音を立てているだけだ。
「オズベルク様、アムニシェル様と弟子のバルトロメウ様でございます」
スミスが普段よりもやや大きな声でそう言うと、ようやく市議の落ち窪んだ目が二人の方を向いた。出会ってからひと月もたたないというのに、市議長のあまりの変貌ぶりに思わずアムニシェルが怯えたように肩を揺らした。
「やはりこれは、レーツェル・キューブの作用なのでしょうか――日に日に状況は悪くなるばかりで、今は公務ですら一人で行うことが出来ません。私が一日傍に居なければ食事をとることもままならない状態です」
スミスがレーツェル・キューブを運んでくる間も、市議長はまるで夢見心地のように虚ろな目で宙を見つめていた。
その姿に、アムニシェルの中である仮説が湧き上がってくる。
「アムニシェル様。何か用意するものはございますか」
「はい。この前に見たいに水を張った桶をお願いします。出来ればこの前のものより一回り大きなものの方がいいかと」
「かしこまりました、すぐにご用意いたします」
目の前の状況が信じられないと言わんばかりに立ち尽くすアムニシェルだったが、それでもスミスに指示を出すことは忘れない。
そんな師の肩を叩いて、バルトロメウは声を低くした。
「なあ、師匠ちょっといいか。……便所ってどこにあるのかねぇ」
「え、お、お手洗いは……スミスさんに聞いた方がいいかも。私も知らないよ」
「だよなぁ。おい兄ちゃん、便所ってどこにあるんだ?」
よりにもよって催したのか。この場面で。
がっくりと肩を落としたアムニシェルの気持ちを知ってか知らずか、無事にトイレの場所をスミスに教えてもらったバルトロメウは、しばしの間彼女の傍から離れることになる。
万が一、たとえその可能性が低くても、今ここで何が起こるかはわからない。
こっそり持ってきた作業用のレンチがちゃんと鞄の中に入っているのを確かめて、アムニシェルはへその少し下あたりに力を込めた。考えたくはないが、市議長の姿を見ていると最悪の場合を考えなければならない。