「捻っても叩いてもダメ、温めても冷やしてもダメ、……一応ロスト・テクノロジーのアクセスかけてみるけど、どうかなぁ」
「できんのか、それ」
「認証番号と生体パスワード入力すれば一応、開くことは出来ると思う……魔女の生体パスワードって、一種のマスターキーみたいなものだから。手順さえ間違わなければ大概のロスト・テクノロジーは開くはず。やったことはないけど」
立方体を触りながら、アムニシェルは眉根を寄せて短く息を吐きだした。何が起こるのかと期待するような視線を向けるバルトロメウには悪いが、魔女が使う「魔法」――生体パスワードによるロスト・テクノロジーの起動は、そんなに派手なものではない。
「カテゴリゼロ、個体名アムニシェル・アプリコット。アクセスを開始します。認証番号は――」
屋根裏部屋のライブラリと同じように、16桁の認証番号を滞りなく呟くと、規定された手順に従って生体パスワードを入力する。アムニシェルの場合、魔女として登録されているのは声紋と指紋、そして虹彩だ。生前の父が全てやってくれたことなので、詳しい手順は分からない。だがこれが全て認証されれば、魔女としてアクセス権を証明することは出来る。
「それ、ローゼンハイムも出来たんだろ」
「お父さんは虹彩とか静脈のパターンとかで登録してたみたい。でもデータはほとんどエドモンドおじさんが壊してくれたから、多分今はどこにもないんじゃないかな。残ってるとまた戦争とかがあった時に悪用されかねないからって、遺言なの」
「……そうか」
相変わらずうんともすんとも言わないレーツェル・キューブを観察して、アムニシェルは失敗だったかと肩を落とした。最初からこのパスワードでは開かないようになっていたのかもしれない。別の手順を考えるか、それとも先に何か仕掛けがまだあるのか。
しかし、見た目の変化がない匣を触っているとある異変に気が付いた。バルトロメウを呼び寄せて、何故か小さな声でメモを取るようにと指示を出す。
「見て、これ……さっきまでつるつるだったのに、溝みたいなのが浮き出てる。レーザー加工かな、これ……」
「おぉ……! いや、俺にゃ透かしに見えるな。紙幣とかに描いてあるアレみたいによ」
「んー、それ以外の変化はなし、ってことは、ここから色々試せってことなのかなぁ。アクセス成功ってこと?」
立方体の側面には、それぞれの頂点を結ぶようなバツ印が薄く刻まれていた。触れると線の部分だけが溝の様に削れていて、うっすら青く発光している。バルトロメウが透かしのようだと言ったのはおそらくこの部分だろう。それ以外は温度も重さも手触りも変わらないが、明らかに一歩前進したことになる。
「問題はこっからどう動かすかってことだな。力が必要なら言ってくれ、幾らでも貸すぜ」
「うん、でもこれ、この形じゃあんまり動かないよね……前のマルドゥイユ市議の時はもっとこう、分かりやすい形だったし」
溝をなぞってみても光が消えるように塞いでみても、特に何も起こらない。持ってきた器具で奥の方を少し突いた時に小さく震えたので、取りあえずこの溝の部分に何かすればいいようなのだが、それが分からないのだ。
「これ、市議長に報告した方がいいかな」
「何とも言えねぇよな……いや、一回何も言わないで様子を見た方がいいかもしれん。勿論あの執事の兄ちゃんにもだ」
「スミスさんにも?」
「ちょいこっち来いアミー。いいか、アイツの名前、ありゃ偽名だ」
「え!?」
思わず声を上げたアムニシェルの頭を軽く小突いて、バルトロメウは彼女を手招きした。慌てて口を塞いで彼のほうに近づいていくと、低い声がさらに小さく顰められる。
「スミス・アディオンなんてあからさますぎるじゃねぇか。大体スミスっつーのは普通、ヒトの姓に使うもんだ」
「え、でも特殊な使い方する人かもしれないし……やっぱりバールが考え過ぎなんだよ。そんなに疑ってばっかりじゃ仕事し辛くなっちゃう」
「馬鹿野郎、用心するに越したこたぁねぇ。ここの主人もなんか妙だしな」
低い舌打ちを一つ飛ばしたバルトロメウは、指を組んでわざとらしくバキバキと鳴らした。
最初に市議長と出会った日から、彼は何が不満だというのか市議長その人に対して些か私怨にも似た疑念を抱いていた。それがアムニシェルには不思議でならないのだ。どうしてこの人は、こんなにも周りを疑ってかかるのだろう。そんなことをしたってただただ苦しいだけだろうに、一体なぜ――不思議そうな顔をして眉を寄せるアムニシェルの耳に、また短い舌打ちが押し込められる。
「まあいい、この話は帰ってからだ。いいか、とにかく言うなよ。多分主人の方はさっきのアンタと同じような状態だ」
「それってつまりこの匣に……」
「ああ、魅入られてやがる。なんだってそんな効果があるのかはよくわからんが、そういうシステムについても調べる必要がありそうだな」
ちょうど二人の話が終わった後、軽快なノックが四度扉の外側から聞こえる。仮面のような無表情のスミスが、開かれたドアの向こうに立っていた。
「失礼します。アプリコット様、何か発見はございましたか」
「い、いえ、まだちょっとよくわからなくて……あの」
思わず言いよどんだアムニシェルに首を傾げたスミスは、その手に持っていたレーツェル・キューブを一目見て、「ああ」と息を吐いた。同からはこの表面に刻まれた溝に気付いたようである。じっと見れば確かにすぐ気付くことは出来るような痕ではあるのだが、敢えてアムニシェルの方から口を開かなかったことに対して彼はなにか納得がいったようであった。一回だけコクリと頷いて、恭しく腰を折る。
「主は恐らく、『それ』には気付きますまい……これまでの無礼をお許しください、アプリコット様。如何なローゼンハイム・アプリコット卿の御息女とはいえ、その能力を全て受け継いでいるとは限らないもので」
「え、それって」
「コイツのこと、試してたってことか。アディオンさんよ」
スミスは落ち着き払ってその言葉を首肯すると、謝罪の言葉を述べてもう一度腰を折った。唖然とするアムニシェルと対照的にバルトロメウは不機嫌そうな表情のままだったが、有能そうな執事はそれを気に留めることもなく話を続ける。
「その匣を触った時に、何か妙なことは起こりませんでしたでしょうか。そう、例えば……アプリコット様かジェラルド様のどちらかが、異様な昂揚感に襲われた、とか」
「師匠の方だな」
「左様でございますか。ですかアプリコット様は無事に戻っていらっしゃったと」
アムニシェルが答えるよりも早くそう答えが返ってきたことで、スミスはつるりとした顎を撫でつけて「なるほど」と何度か言葉を噛みしめるような仕草を見せた。
「主はその匣に囚われております。もとより好事家、珍しい品や貴重な品に目がなかった方ではありますが、その匣を手に入れてからそれが顕著でして。一介の使用人たる私が口を挟めるようなことではございませんが、正直に言えば公務にも支障をきたしております」
そう聞いて、二人は同時に目を見張った。
この無表情無感情をそのまま擬人化したような執事がそんなことを言うなんて、想像もできなかったからだ。アムニシェルから匣を受け取ったスミスは少し困惑したような、本当に僅かな揺らぎを見せてそれを再び主の元に戻すと言って席を外した。
それから少々の時間を置いて、もう一度部屋の扉がノックされる。公務中のオズベルク市議長は見送ることが出来ないため、今日はこのまま帰宅することになった。晩餐を一緒にとの提案もあったが、そこは辞退させてもらう。エドモンドの店にいって、少し話したいことがあるのだ。
「御送り先は御自宅でよろしいでしょうか?」
「あ……えっと、大通りの手前で降ろしてください。シエル・ブリュに寄りたいんです」
「かしこまりました。ジェラルド様もそちらでよろしいですか?」
「おう」
来るときは朝方だったためまだ目立たなかったが、流石に街中を馬車で駆け抜けるのは悪目立ちする。その少し前、人が少ない場所で下してほしいと提案すると、スミスは一度頷いて了解してくれた。何だか先程表情が崩れたせいか、来た時よりも彼がよほど人間らしく見える。
「それではこちらへ。馬車の用意はできております」
来た時と同じように黒塗りされた馬車に乗り込むと、今度はアムニシェルの方も余裕が出来たらしい。朝よりは随分落ち着いた表情で窓の外を覗き込む。相変わらず、庭園では多くの庭師が花々を整えている。
「花に、興味がおありですか」
「そういうわけじゃないんですけど、こう、凄いなって」
「全て主の趣味ですよ。区画が五つに分かれていまして、オムニェル=スタングだけではなくマイネンベルク、スレヴド、シュトレーゼ、ハヴェルスキーなど、他の国々の固有種などの栽培も試験的に行っております」
世界中の珍品を集めるだけではなく、各国固有種の花まで揃えているとは。ただ、せっかくの固有種を他の国で育てるというのもどうかと思ったが――そこら辺は、アムニシェルが触れるべきことではないのだろう。自分の本分はあくまで機械いじりであって、そういう事にむやみに口に出すべきではない。
ゆっくりと走りだした馬車の窓から流れていく花々を見ながら、今度はバルトロメウが取ったメモとスケッチに目を落とした。
「時に、ジェラルド様」
緩やかな揺れの中で、不意にスミスが顔を上げた。その斜向かいに座るバルトロメウが腕を組んだまま片目を開けて言葉の続きを促す。
「大変不躾な質問であるということは承知です。……貴方様の出身というのはもしや、シュトレーゼの……」
「分かってて聞いてんなら野暮ってもんだぜ。大概はアンタが想像してる通りで合ってるんだろうが、今の俺はただの便利屋だ。自分の出自を探られんのは互いに不利益しかねぇだろ。俺にとっても、アンタにとってもだ」
「左様で……御座いますか。出過ぎたことを申しました。申し訳ございません」
座ったまま一礼して、結局二人が馬車を降りるまでスミスが言葉を発することはなかった。深々と腰を折る執事に見送られながらエドモンドの店に向かうアムニシェルが頭上を見上げると、バルトロメウは何とも言い難い複雑な表情でバリバリと頭を掻いている。
「食えねぇな、主人も主人なら執事も執事だ」
唸るような呟きは、相変わらず女性客で賑わうシエル・ブリュの扉の中に消えた。本日の晩餐は、エドモンド特製の卵料理になるだろう。